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Vol.579 壮大かつ伝統のある師走祭り

投稿者: | 2010年01月27日(水) 19:13:22

皆さん上の写真を見たことがありますか?そうです、たくさんクリスマスツリーがあって、火が引火して大騒ぎ!・・・じゃないんです。これは美郷町師走祭りの写真です。 たくさんの木に見えるものは実は「やぐら」で、それに火をつけて「迎え火」を焚くのです。

葉が緑色なので簡単に火がつかないんじゃないかと思っていたんですが、あっという間に全体に火がまわっていきました。暗くなりだしてきた景色が真っ赤に染まり、寒かったはずの体が、ある程度離れていても温かさを感じました。やぐらも30〜40ほどあるのでその景色は壮大で、何も知らずに近くを通った人が山火事と勘違いするんじゃないかと思ったほどでした。

「迎え火」というからには誰かを迎え入れているんですよね?と思った方も多いと思います。今からそれにまつわる昔話をさせて頂きます。

今から千三百年ほど前のお話しです。
朝鮮半島に百済〔くだら〕という国がありましたが、国どうしの争いで攻め滅ぼされてしまいます。
国を追われた百済の王さまたちは、船に乗り国交のある日本へ逃げてきました。
最初に船が着いたのはかつて安芸の国と呼ばれた広島県でしたが、動乱などからのがれるため、再び新たな生活の地を求めて船に乗り込みます。
九州方面へ進路をとりましたが、途中で激しい嵐に遭遇してしまい、百済の王さま、父・禎嘉王〔ていかおう〕と次男・華智王〔かちおう〕日向市の金ヶ浜に。長男・福智王〔ふくちおう〕は高鍋町の蚊口浦〔かぐちうら〕に流されました。
そして、禎嘉王一行は「南郷区の神門」に、福智王一行は「木城町の比木」に移住することになったのでした。
しかし、本国の敵が禎嘉王の居場所をつきとめ、軍を率いておしよせ、東郷の伊佐賀〔いさが〕で激しい戦いが始まります。
禎嘉王の軍は移住した土地の豪族を味方につけていましたが、それでも兵力が少なく敗戦は決定的でした。
禎嘉王の危機を救おうと福智王が軍を率いて駆けつけ参戦しました。
力の限り敵と戦いましたが、この戦いで次男・華智王が戦死し、禎嘉王も戦いの中で負った傷がもとで死んでしまったのでした。
残された福智王は嘆き悲しみ、土地の人々もまた百済の王族の死を心から悲しみ、禎嘉王は神門に、華智王は伊佐賀に、また、のちに亡くなった福智王は比木に、それぞれ異国の神としてまつったということです。

と、このような話があるのです。師走祭りでは、比木神社に祀られている長男の御神体が約90キロの旅をして、年に1度の対面を果たす為に父が祀られている神門神社を訪れます。そのための「迎え火」なのです。知らなかった人も多いのではないでしょうか?実はこのような由来があるのです。

話は変わるのですが、右の大きな鍋はシシ鍋です。実際に見た方がかなり大きく感じますよ。私はこのシシ鍋とおにぎりを頂きました。シシ肉はコリコリ感があり、大根にも醤油ダシがしっかりしみついていてとてもおいしかったです。ごちそうさまでした!シシ鍋が300円で、おにぎりが3つで200円ととてもリーズナブルなお値段で満腹+初めての味を経験することが出来ました!

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