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Vol.817 黒田の家臣

投稿者: | 2010年06月17日(木) 08:35:53

皆さんは黒田の家臣を知っていますか?黒田の家臣はれっきとした旧跡の名前です。自分はそんなこととも知らずに、黒田さんの家臣がどうしたの?みたいな感じでした笑

では知らない人のために、黒田の家臣とはいったい何なのか?
文久2年(1862年)、京都伏見の船宿「寺 田屋」で寺田屋騒動が発生します。薩摩藩主・島津久光が進める公武合体に反発する尊皇攘夷派と、それを抑えようとする公武合体派の同士討ちでしたが、最終的には島津久光が差し向けた奈良原繁の決死の 説得に尊皇攘夷派の志士が投降し、幕を閉じます。
生き残った尊王攘夷派の志士達のうち薩摩藩士は本国へ送還され、引き取り先の無い浪士達も薩摩藩預かりとなりました。しかし、送還とは名ばかりで、寺田屋事件の中心人物である田中河内介とその息子は香川県・小豆島沖で惨殺され、遺体は海へ投げ捨てられました。また、同じく薩摩藩預かりの予定であった千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門も途中、日向細島で殺害され、その後、細島の人、黒木庄八が千葉、中村、海賀3名の遺体を発見したのですが、これを不憫に思った庄八は墓を建て、その後もその世話を続けていきました。そして、その内の 一人の腹巻に「赤心報国唯四字、黒田家臣、海賀直求」とあったことから、地元ではこの墓を「黒田の家臣」と呼ぶようになったというそうです。また、この墓の世話は 今も庄八の子孫の方が続けられているとのことです。

普段は島ではありませんが、海が割れて簡単に島に渡ることが出来るんですよ。
歴史の得意でない私でも知っている事件が、細島に関わりがあるなんて思ってもみませんでした。すばらしい話ですが、何かむなしさも感じます・・・。歴史の勉強も含め、私は行ってみたいなと思いました。宮崎の人でも、この「黒田の家臣」を知らない人は少なくないみたいなので、ぜひ皆さんも行ってほしいなと思います。

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